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アイルランド初の魔女裁判にかけられたアリス・キテラ [アイルランド]

キルケニー城から聖カニス大聖堂までの500m余りの道を歩いていく。途中、町の中心を通るので、見学しながらぶらぶらと歩く。

キテラーズ・インというパブもその途中にある。この建物は14世紀に造られている。 キルケニーで一番古い建物だそうだ。重厚な感じで、素敵なパブだ。その中を見せていただけた。

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この建物は、アリス・キテラという女性が住んでいたので有名とか。入口を入ってすぐのところに、その女性を模したマネキンみたいなものを置いている。

この女性、アリス・キテラは、アイルランドで初めて、魔女裁判にかけられた人物として有名なのだ。お金持ちの男と結婚するが、夫に死なれ、通算、4回結婚することになった。夫に死なれるたびに財産を増やしていったことを周囲からねたまれたらしい。彼女の魔法の秘薬によって夫たちは殺された、というわけだ。

彼女は、1324年に魔女として訴えられるとただちにイングランドに逃亡した。だが、彼女の召使いペトロニーラ・ディ・ミーズは捕まり火刑にされた。

14世紀以降、キリスト教教会において、魔女が異端であるとし、追求する権利を異端審問官に与えた。これ以降魔女狩りがおこり、多くの人間が刑に処された。

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ところで、魔男ではなく、なぜ、魔女なのかという疑問がわく。魔男とは言わなくて悪魔なのかもしれないが、悪魔裁判というのはなくて、魔女裁判になるのはなぜだろう。なぜ、女だけを裁くのだろう。

で、調べてみると、魔女裁判では、男も多く処刑されたようだ。当時、女の地位は、大変低く、男に対して女呼ばわりするというのは最大限のののしり行為だったらしい。だから、男の異端をののしるときに、女みたいにどうしようもないヤツだ、魔女ではないか、という論法になるわけだ。そうはいっても処刑されたのは女性のほうが多かったというのが一般的な見方らしいが、実際のところは、男女別の記録は残っていないので、わからないらしい。

女性は、出産介助や介護、避妊、堕胎など、人の生死にかかわることが多かったので、うまくいかなかった場合などにうらみを買うことが多かった、というのも女性が魔女裁判にかけられやすい原因でもあったようだ。ちなみに、ジャンヌ・ダルクも1431年に魔女として火刑にされた。

魔女たる理由もいろいろある。これをひとつひとつみていくと当時の様子がよくわかると思うが、なにしろ犠牲者は4万人にのぼるという説もあって千差万別の理由なんだろう。
1428年イタリア、新生児の血で軟膏を作った。
1570年ころフランス、空を飛んで山羊の姿をした悪魔と接吻をした。
1613年フランス、手ずから何人もの子供を殺し、人をかまどになげいれたり獣に食わせたり皮をはぎとった。
つまり、バチカンのような権力側からみた異端者に、なんらかの難癖をつけたのだ。

ついでに魔女という日本語はwitch(ウィッチ)の訳だが、英語では男性も含むらしい。女王が存在し独自のキリスト教会(イングランド国教会)を作ったイギリスの言語である英語は性による区別が次第に失われていったようだ。ドイツ語やフランス語で、魔女という言葉は、女性名詞だとのこと。よくないことをあらわす名詞は女性形をとることが多いそうだ。英語はいいですねぇ。

日本でも仏教が伝来してからというもの、女性の地位は下がってしまい、人をたぶらかすのは、雪女や女狐のように、女性ということになっている。

さてさて、そのアリス・キテラが住んでいたキテラーズ・インというパブは毎晩、大盛況で、ビールを注ぐ機械もいろいろと揃えている。

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キテラーズ・インを素通りして外に出る。ここはスーパーかなぁ。3つ5ユーロなんて、札が出ている。日本とあまり変わらない値段だわ。

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こんな親子も。

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道路のそこここに花かごがぶらさがっている。花がいきいきしている。

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むこうから、ちんちん電車みたいな観光バスがやってくる。

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裁判所を通る。

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観光バスがやってきた。
左の黒い建物は、1594年に商人の、ジョン・ロスによって建てられた。現在はロスハウスとして、商人の生活環境に関する博物館になっている。普通の街並みに溶け込んでいるのがおもしろい。

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ポストが赤いという先入観は捨てたほうがいい。アイルランドでは緑。

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スミスウィックって、飲んだわ。その醸造所がこんなところに。

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きれいな街並みをどんどん通り過ぎていく。

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観光客向けの八百屋さんのデコレーション。

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雨がやんでよかった。

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この路地を抜けると、目的地、聖カニス大聖堂だ。

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ステンドグラスが素晴らしい聖カニス大聖堂 [アイルランド]

キルケニーの町の北のはずれあたりに聖カニス大聖堂がある。キルケニー自体が小さな町で、キルケニー城と、聖カニス大聖堂にはさまれたところがにぎやかな通りになっている。そこを歩いてきた。

キルケニーの町の語源は、聖カニス教会をあらわすゲール語だそうで、この大聖堂は歴史的建築物ということになるそうだ。現在の大聖堂は13世紀に建てられたものだが、それ以前にもここに教会があったらしい。丸い円筒のラウンドタワーは11世紀の建物だそうだ。

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中は、素晴らしい。とても13世紀の建物とは思えない。
ここはクロムウェルが侵攻したときに、厩(うまや)として使っていたそうだから、破壊はいくぶんまぬかれたのかもしれない。その後、修復されたということだ。

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ここのパイプオルガンは聖壇の脇に置かれている。よくあるのは、聖壇の反対側の2階にある。そうすると、讃美歌とオルガンの響きが天から降ってくるように感じるのだ。

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下は、なにげなく座席に置かれていた布地。全面が手で刺繍された素晴らしい作品だった。これはどんな時に使うのだろう。

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聖カニス大聖堂の全景。周囲にお墓がある。教会にラウンドタワーがあるのが、いかにもアイルランドらしい。

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ステンドグラスが美しかったので、そのうちのいくつかの写真を撮った。それぞれ意味があるのだろう。

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小学唱歌「庭の千草」のふるさとアボカ  [アイルランド]

キルケニー城から聖カニス大聖堂までキルケニーの目抜き通りを歩いて見学した。雨に降られたが、赤い八重のベゴニアが元気に濡れていた。

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さて、キルケニーから、バスで1時間半ほど揺られ、アボカという小さな村で昼食を取った。アイルランドでは観光で有名な町らしい。

「地球の歩き方」にはこの町のことはまったくふれられていない。なぜなんだろう、と思って「地球の歩き方」を再び詳細にみていく。それで、なぜアボカが日本のガイドブックにないのか、推測してみた。

アボカはこれから訪れる観光地グレンダーロッホの南にある。ダブリンは北にある。日本からの観光客のほとんどは、グレンダーロッホを訪れるが、たいてい日帰りで、ダブリンを拠点に行動する。となると、グレンダーロッホからさらに遠くまで足をのばさねばならなくなって、旅程を組みにくくなる。それに、日本人からみると、大きな目玉となる観光資源がない。

アボカはのんびりできそうな小さな村なので、ぜひ、ゆっくりと滞在したいものだ。

昼食のために、1608年創業というホテルWooden Bridge Hotelのレストランに入った。素敵な名前のホテルだ。
雨はひどくなるばかり。外のシクラメンの鉢植えをガラス窓越しにみると、なかなか風情がある。雨もいいものだ。

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メインディッシュは大体いつも同じだが、今日はめずらしくポークが出てきた。ポテトは毎食、欠かさず出てくる。このときは下の写真のように、マッシュポテトとゆでた小さなポテトが2種類出てきた。いつもあきることなく、おいしい。

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デザートはシュークリーム。

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アボカの村を車窓から眺める。なかなかいいところだ。水と緑が素晴らしい。

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アボカの村からバスで少し走ったところに、ミーティングオブウォーターという場所がある。アヴォンモア川とアヴォンベグ川が合流する地点だ。下車して、その合流地点に立っている。

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アイルランドの川はどこもそうだが、流れが結構速い。しかし、急流ということでもなく、平地の多い国土をとうとうと流れている。日本の河川とはずいぶん、趣が異なる。日本は狭い陸地でしかも高い山があるので、岩をくだくような流れ方になる。平野部でも広い河川敷がないと、一気に急増する水量に追いつかない。

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ここには、トーマス・ムーアの石碑もあった。
「アボカの美しい谷よ。最愛の友と緑陰に抱かれて、この上なく静かに憩う。ここでは冷たい世の嵐も吹きすさぶこともない。せせらぎのようにわが心は平和にひたる」
と書いてあるそうな。

トーマス・ムーアというのは「庭の千草」の歌の作者だ。
「庭の千草も、むしのねも、
かれてさびしく、なりにけり
あゝしらぎく、あゝ白菊、
ひとりおくれて、さきにけり」
という、日本人がよく知っている歌だ。

この歌は、アイルランド民謡で原曲は「The Last Rose of Summer」。 明治17年刊行の音楽教科書「小学唱歌第3編」で紹介された。原題はバラであるが、日本では白菊と翻訳されている。

明治17年に、なぜ、アイルランド民謡が、小学唱歌として、教科書に登場したのか、本当に不思議だ。

この曲を選定したのは、ルーサー・ホワイティング・メーソンという人物だ。彼は、明治政府によってアメリカから招へいされている。

明治5年(1872)に発布された「学制」によって、学校の科目に「唱歌」が加えられた。歌が情操教育に重要であることを認識されたのだ。いったい、だれが明治政府を動かしたのだろう。
同じく明治5年、在米日本公使館の初代代理公使だった森有礼は、イーヴン・トゥルジェーという人に日本で音楽教育ができる人をさがしてほしい、と頼んでいる。その結果、メーソンが選ばれたらしい。メーソンは米国の人なのだが、アイリッシュ系ではないかと思って調べてみたが、出自はわからなかった。

なぜ、森有礼は、そのようなことをしたのだろうか。誰からの指示で動いていたのだろうか。この疑問に答える記述をさがしてみたが、今のところどこにも見当たらない。

明治4年から明治6年にかけて岩倉使節団が米国を経て、ヨーロッパを回覧している。ワシントンでは、使節団に同行した津田梅子たちも、森有礼に会っている。このときに、岩倉使節団は、森有礼に音楽教育の人材探しを依頼したのではないだろうか。時期的にも符合するのである。

岩倉使節団のミッションに、日本で音楽教育ができる人材探しもあったのではないだろうか。岩倉使節団は、各地で、学校を訪問しており、子供たち全員がそろって歌っていることにいたく感動している。歌が国民の統一に寄与することを意識してのことだったのだろうか。

明治時代の唱歌に、外国の歌が多く入っていることは、興味深いものがある。「仰げば尊し」、をはじめ、スコットランド民謡の「蛍の光」、ドイツ民謡の「ちょうちょ」、ジャン・ジャック・ルソー作曲の「むすんでひらいて」、ウェルナーの「野ばら」などなど。「仰げば尊し」は、「Song for the Close of School」という楽曲として、1871年に米国で出版された楽譜に収録されているそうだ。私たちが、なつかしく歌うものは、アイルランドやスコットランドで歌われていたメロディだったのだ。

そのトーマス・ムーアがこよなく愛した土地は、散策できるように整備されている。風景もどこか日本に似ているではないか。たが、雨が降っていたので、早々に引き揚げた。

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トーマス・ムーアの石碑やしっとりとした落ち葉をカメラにおさめたのだが、傘を持ちながら撮ったので、どの写真もぶれがひどくて、お蔵入りばかりだった。雨の日のカメラは、さらなる研さんを要するわ。


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